●原題:Goya's Ghosts/2006年/アメリカ、スペイン/カラー/ビスタサイズ/ドルビーDTS/114分/2008年10月4日(土)から、スバル座、渋谷東急、新宿ミラノほかにて、日本公開
●配給:ゴー・シネマ
●配給:ゴー・シネマ
ミロス・フォアマン監督の『宮廷画家ゴヤは見た』は、スペインの異端審問、ナポレオンの台頭、そしてゴヤの生涯といった歴史的には偶発的な事件をない交ぜにしようとしているのだろうが、それらを正当に取り扱うことができずに終わってしまっている。野心的な脚本は、娯楽と知性主義の中間で立ち往生してしまい、観客に壮大な愚行を突きつけるだけで、映像美で最後まで見ることはできるが、結局のところ中身のない作品になってしまっている。フォアマンの堂々たる過去の作品群があることから、海外での興味は喚起できるかもしれないが、このようなどこに分類していいか分からない作品が限られたヨーロッパでの地域以外で商業的に主要な観客の注意を引くことは、はなはだ難しいことになるであろう。ソウル・ゼインツ製作の作品ではあるが、映画祭のサーキットにまで見放された感がある。
監督の過去作品、欧州の歴史をあつかった『アマデウス』や『恋の掟』は、金看板のついた土台の上に構築されたものであった(かたやピーター・シェファーの舞台を、そしてもうひとつは「危険な関係」を原作としている)が、この作品ではそのようなインスピレーションは、まったくもたらされなかったようである。
監督の過去作品、欧州の歴史をあつかった『アマデウス』や『恋の掟』は、金看板のついた土台の上に構築されたものであった(かたやピーター・シェファーの舞台を、そしてもうひとつは「危険な関係」を原作としている)が、この作品ではそのようなインスピレーションは、まったくもたらされなかったようである。
舞台は1792年、異端審問とゴヤに象徴されるスペイン
物語の始まり、舞台は1792年、異端審問所長(ミシェル・ロンズデール)やロレンソ神父を含む異端審問のメンバーたちは、破壊的であることで著名なゴヤの版画集「カプリチョス(気まぐれ)」を苦々しげにめくっていく。異端審問所長は、ロレンソ神父がゴヤ(ステラン・スカルスガルド)に肖像画を頼んだことで頭を悩ませていた。当のロレンソ神父は悪い印象を是正しようと、異端審問が以前の厳格な状態を取り戻すことを提案していた。
最初の犠牲者はゴヤのモデル、イネス(ナタリー・ポートマン)であった。裕福な商人トマス・ビルバトゥア(ホセ・ルイス・ゴメス)の娘で、美しい彼女は豚肉を食べることを拒否したことを咎められ、審問所によって逮捕されてしまう。
最初の犠牲者はゴヤのモデル、イネス(ナタリー・ポートマン)であった。裕福な商人トマス・ビルバトゥア(ホセ・ルイス・ゴメス)の娘で、美しい彼女は豚肉を食べることを拒否したことを咎められ、審問所によって逮捕されてしまう。
本映画の道徳的な中核をなす問題点が曖昧にされる前半部分
イネスは「尋問」にかけられるが、それは拷問を婉曲的に表現したものでしかなく、ついにはそれに屈し、告白を余儀なくされる。ロレンソ神父がイネスの幽閉されている地下牢を訪ねるのだが、それはそのまま彼がイネスをレイプしたことを示している。これは作中、数ある重要な、それでいて信じがたいほど重きを置かれてしまう構想上の肝なのだが、それが分かるのはずっとずっと後になってからのこと、という具合なのである。トマスはロレンソを食事に誘い、拷問にかけられれば人は何でも告白してしまうということをその席で証明しようとする。これも本映画の道徳的な中核をなす問題点なのだが、取り扱い方があまりに下手である。
つまり、ほとんどモンティ・パイソンにでてくるような不条理でとても信じがたいことになってしまっているシーンで、ロレンソはトマスのダイニングルームで拷問にかけられ、猿から生まれてきたということを告白する書類に署名させられてしまう。審問の本質がそのようなものだとすれば、そういった厚かましさが、トマスとそのメンバーたちに何の弊害ももたらさないということはありえないことなのだが、ただ、映画の中では、そのようなことは起こらない。
衆人環視の下で辱められ、ゴヤの描いた肖像画も焼かれ、ロレンソ神父は審問の正義から逃れるように逃亡者になってしまう。そういった緊張感も、国王カルロス4世(ランディ・クエイド)の妻の醜い王妃マリア・ルイーザ(ブランカ・ポルティージョ)の肖像画をゴヤが描くなど、さして面白くもない物語の進行に軽減されてしまっている。
つまり、ほとんどモンティ・パイソンにでてくるような不条理でとても信じがたいことになってしまっているシーンで、ロレンソはトマスのダイニングルームで拷問にかけられ、猿から生まれてきたということを告白する書類に署名させられてしまう。審問の本質がそのようなものだとすれば、そういった厚かましさが、トマスとそのメンバーたちに何の弊害ももたらさないということはありえないことなのだが、ただ、映画の中では、そのようなことは起こらない。
衆人環視の下で辱められ、ゴヤの描いた肖像画も焼かれ、ロレンソ神父は審問の正義から逃れるように逃亡者になってしまう。そういった緊張感も、国王カルロス4世(ランディ・クエイド)の妻の醜い王妃マリア・ルイーザ(ブランカ・ポルティージョ)の肖像画をゴヤが描くなど、さして面白くもない物語の進行に軽減されてしまっている。
全てのマキャベリズム的側面が不毛に描かれる
物語は15年ほどジャンプして、スペインへのナポレオンの侵攻、異端審問の廃止、信じがたいようなロレンソ神父の変身(彼は、革命的な啓蒙思想家になってもどってくる)、そして肉体的にボロボロになったイネスが牢獄から解放されるといった件に移っていく。イネスの解放とともに、物語の上でははかばかしくない秘密も世に出てくるわけだが、このことが映画のうんざりするような後半を支配するという具合になってしまっている。
映画はここで、限りない権力や裏切り行為、人違いといった危険な状況を語っているのだが、これが欠陥だらけであり、なぜかとても不毛な議論になってしまっている。この中、登場人物もそういった考え方のとりこになってしまっている。この映画に愛情関係というのが描かれていないという事実は、時代背景がそれを許していないということもあるのだろう。ただ、もしそれがあれば、いくらか感情的な温もりを生むこともできたであろうし、描かれている全てのマキャベリズム的なところからほっとひと息つく瞬間も生まれていたかもしれない。
映画はここで、限りない権力や裏切り行為、人違いといった危険な状況を語っているのだが、これが欠陥だらけであり、なぜかとても不毛な議論になってしまっている。この中、登場人物もそういった考え方のとりこになってしまっている。この映画に愛情関係というのが描かれていないという事実は、時代背景がそれを許していないということもあるのだろう。ただ、もしそれがあれば、いくらか感情的な温もりを生むこともできたであろうし、描かれている全てのマキャベリズム的なところからほっとひと息つく瞬間も生まれていたかもしれない。
観客と結びつくことができずじまいに終わってしまったバルデム
物語は、白と黒、善と悪といった議論で埋め尽くされており、登場人物たち、とくにバルデム演じる神父は、その状態から逃げ出そうと戦いを続けている。本映画のドラマと感情の中心であるこのスペイン人俳優は、邪悪でそれでいて優しい言葉で話す異端審問の中の無法者となることと、啓発された進歩主義者になることを同時に求められた役柄に不快感をにじませている。彼は結局のところ、ロレンソ神父を実直で、ときに自問自答をするような自己探求者として表現し、観客と結びつくことができずじまいに終わってしまっている。バルデムの顔は、それだけで素晴らしく印象深いものをかもし出してくれているにもかかわらず、この映画では英語の発音が彼のネックになってしまっている。しばしば彼はぶつぶつ言っているだけのようにしか聞こえず、イントネーションもおかしく、時にははっきり言って、何を言っているのかさっぱり見当もつかないところもある。
映画の題名は、この映画が伝記ものであることを約束しているような印象を与えるが(原題は「ゴヤの幽霊」)、ゴヤ自身のことはほんの少ししか触れられておらず、彼はまったく社会的な文脈とは無関係のように見える。彼が職業的に成功したのは(彼の才能はさておき)、彼が社会的な出来事から乖離していたからで、やっていることといったら宮廷と酒場の間を自由に徘徊しているに過ぎない。フォアマンと共同脚本家のジャン=クロード・カリエールが、ゴヤを神話的でなく、人として描いたのは、たぶん賢い選択だったのだろう。スカルスガルドにしても、威張りくさって楽天的な、その後、聴覚障害によって辛い思いをする画家を見識と生気をもって演じているといえる。しかしながら、少なくともこの画家の稀代の才能を祝福することや、少なくともそれに対して何らかの問いかけがあれば、この思い切った作品にはプラスになったのではないかと思わせる。
映画の題名は、この映画が伝記ものであることを約束しているような印象を与えるが(原題は「ゴヤの幽霊」)、ゴヤ自身のことはほんの少ししか触れられておらず、彼はまったく社会的な文脈とは無関係のように見える。彼が職業的に成功したのは(彼の才能はさておき)、彼が社会的な出来事から乖離していたからで、やっていることといったら宮廷と酒場の間を自由に徘徊しているに過ぎない。フォアマンと共同脚本家のジャン=クロード・カリエールが、ゴヤを神話的でなく、人として描いたのは、たぶん賢い選択だったのだろう。スカルスガルドにしても、威張りくさって楽天的な、その後、聴覚障害によって辛い思いをする画家を見識と生気をもって演じているといえる。しかしながら、少なくともこの画家の稀代の才能を祝福することや、少なくともそれに対して何らかの問いかけがあれば、この思い切った作品にはプラスになったのではないかと思わせる。
スペインのこの時代の歴史を映像的な説得力をもって描く
ポートマンの演じるイネスは前半、ゴヤのミューズとして説得力をもっているが、後半になると、けばけばしく見苦しいような化粧をして、何かにいつもおびえていて良い行いしかしない、ただの気の狂った女性になってしまっている。信頼のおけるフランス人俳優ロンズデールは、与えられた少ないセリフの中で、すばらしい演技を見せている。ほかの演者たちは、脚本のとおり平面的であるといえる。
この映画の強みは、映像であり、スペインのこの時代の歴史が、これほどまでの映像的な説得力をもって描かれたことは、これまでには一度もない。スペイン人撮影監督ハベエル・アギーレサロベは、贅沢で広々とした内装、暗い牢獄、人で溢れんばかりになっている酒場、(短い瞬間ではあるが)戦場などをしっかりと捉えている。イネスが解放され、青ざめた照明にセリフもなく続く、戦闘によって破壊されたマドリッドの街を彼女が徘徊するシーンは、純粋に詩的である。ゴヤが切り取り描くところの見事なほどにグロテスクな時代も、一貫して敬意を持って扱われている。
この映画の強みは、映像であり、スペインのこの時代の歴史が、これほどまでの映像的な説得力をもって描かれたことは、これまでには一度もない。スペイン人撮影監督ハベエル・アギーレサロベは、贅沢で広々とした内装、暗い牢獄、人で溢れんばかりになっている酒場、(短い瞬間ではあるが)戦場などをしっかりと捉えている。イネスが解放され、青ざめた照明にセリフもなく続く、戦闘によって破壊されたマドリッドの街を彼女が徘徊するシーンは、純粋に詩的である。ゴヤが切り取り描くところの見事なほどにグロテスクな時代も、一貫して敬意を持って扱われている。
すばらしい時代考証と衣装デザインは特筆すべきもの
物語は英語によって進められているが、宮廷や酒場の背景で話されている言葉は、どことなくぎこちなく話されているがスペイン語であり、セリフにしばしば優雅さが欠けているのは、アクセントの違う人々が発声してしまっているということだけが原因ではなさそうだ。ヴァルハン・バウアーのメロディー豊かなスコアも慎重に使われており、最大の効果をあげている。時代考証はすばらしいの一言につき、イヴァンヌ・ブレイクのかわいらしく処理された衣装デザインも、特筆すべきものであることを伝えておく。


















































