『20世紀少年』
●2008年/日本/142分/2008年8月30日(土)から日本公開
●配給:東宝
●配給:東宝
夢と輝きに満ちていた、かつてのエキスポ少年時代

(C)1999,2006 浦沢直樹 スタジオナッツ/小学館 (C)2008 映画「20世紀少年」製作委員会
クローゼットに詰まれた資料の箱を整理していると、小学生の私が70年万博のパビリオンを描いたスケッチブックが出てきて、その画のタッチやひらがなのキャプションが『20世紀少年』の「よげんの書」に酷似しているので苦笑した。その70年の夏休み、モノレールから降りて実際の万博会場にたどりつき、太陽の塔を仰いだ瞬間の感電状態は今も鮮明に覚えている。ガキの私は、あの「ウルトラセブン」に出てきそうなモダン・デザインのパビリオンの数々にうっとりし、「人類の進歩と調和」という官製スローガンがうたう科学と人間のアカルイミライを本気で信じたのであった。そして、松下館にあった話題のタイム・カプセルをまねて、まさにチキンラーメンや平凡パンチを埋めた『20世紀少年』たちそのままに、未来の自分へのメッセージや宝物のおもちゃを土中にしまった。その自分流タイム・カプセルは行方知れずとなったが、辛うじて「よげんの書」ふうスケッチブックは押入れから発掘できたというわけである。
その晴れがましい期待感に満ちたスケッチブックを見ていると、SMAPのヒット曲「夜空ノムコウ」ではないが、未来というのは夢見たようにはうまくいかないものなのだなあというメロウな感情におそわれる。あのエキスポが蒔いた夢の未来はどこへやら、格差と孤独と暴力に満ちた社会が私たちの眼前に広がっている。確かにエキスポの夢のビジョンにも似たIT社会は実現したが、同時に人の心や暮らしのスラム化も大規模に進行した。宮崎駿は、現実よりテレビが面白くなった「ウルトラマン」世代(われわれ万博世代のことだ)がまず成長できない大人として世の中をおかしくし、今やこの親として育っていない世代のもとに生まれた子どもたちが輪をかけて異常な事件を引き起こしていると語っていたが、悔しいかなその説に抗うのは難しい。
その晴れがましい期待感に満ちたスケッチブックを見ていると、SMAPのヒット曲「夜空ノムコウ」ではないが、未来というのは夢見たようにはうまくいかないものなのだなあというメロウな感情におそわれる。あのエキスポが蒔いた夢の未来はどこへやら、格差と孤独と暴力に満ちた社会が私たちの眼前に広がっている。確かにエキスポの夢のビジョンにも似たIT社会は実現したが、同時に人の心や暮らしのスラム化も大規模に進行した。宮崎駿は、現実よりテレビが面白くなった「ウルトラマン」世代(われわれ万博世代のことだ)がまず成長できない大人として世の中をおかしくし、今やこの親として育っていない世代のもとに生まれた子どもたちが輪をかけて異常な事件を引き起こしていると語っていたが、悔しいかなその説に抗うのは難しい。
娯楽的な虚構としてすんなり割り切れない「ともだち」のテロ
実際、『20世紀少年』の通称「ともだち」によるテロは、私には娯楽的な虚構としてすんなり割り切れないところがある。かつて私のオフィスの目と鼻の先で地下鉄サリン事件が起こって阿鼻叫喚の地獄をまのあたりにしたとき、いったいこんなことをしでかす鬼畜は何者かと怖気が走ったが、その教団の著名な幹部は私の友人のクラスメートであった。ついでにいえば、オタク生活に沈潜して狂ったあまりにも有名な連続幼女殺人犯もまた、別の友人と同級であった。『20世紀少年』ふうにいえば、私と同学年の「ともだちのともだち」が、日本社会を震撼させた二つの某重大事件に関与していたわけである。そんなわけで、「ともだち」は決して私には架空の遠い存在ではない。
『20世紀少年』は、「感性の王国」で満たされて現実にアンガージュしてこなかったわれわれの世代が、その同じ病根から狂っていった「ともだちのともだち」を断罪して(自らにも)オトシマエをつけるべく、ようやく現実に向けて立ち上がるというおはなしである。長い前置きでもうお判りのことと思うが、これはもう私のために作られたような映画である。誰がどう批判しようが、少なくとも私には(私の世代には)切実な興味を喚起される映画であるはず——というより、そうでなくてどうしよう。ところが意外にも、この作品とのシンクロ率100パーセントの最良の観客である私が、開巻早々どうにもこうにも退屈さを回避できなくなって困り果てた。
『20世紀少年』は、「感性の王国」で満たされて現実にアンガージュしてこなかったわれわれの世代が、その同じ病根から狂っていった「ともだちのともだち」を断罪して(自らにも)オトシマエをつけるべく、ようやく現実に向けて立ち上がるというおはなしである。長い前置きでもうお判りのことと思うが、これはもう私のために作られたような映画である。誰がどう批判しようが、少なくとも私には(私の世代には)切実な興味を喚起される映画であるはず——というより、そうでなくてどうしよう。ところが意外にも、この作品とのシンクロ率100パーセントの最良の観客である私が、開巻早々どうにもこうにも退屈さを回避できなくなって困り果てた。
物語の核心へは踏み込まない、2時間22分
そもそも2時間22分もの長尺を費やして語られた物語があまりにも僅かであって、これでは何を面白がればいいのか、その土台が無い。70年万博の頃の子どもが描いた落書きそのままに、21世紀前夜に大事件が連続する。その背後にはカルト教団の暗躍があるらしく、今や30代となったかつての子どもたちは、カルトの首謀者に同級生の匂いを感じ、あらためて団結して陰謀に立ち向かおうとする。これだけの話になぜこんな長い時間が必要なのか。そのうえ、人物たちの横顔もそんなに踏み込んで描かれるわけではなく、教祖「ともだち」に至っては思わせぶりに時おり登場するだけなので、この存在をいったいどうとらえればいいかも判らない。なぜ落書きに沿って事件が起こるのかがもったいつけて明らかにされないように、かつてのエキスポ少年たちが今なにを思い、なぜ今結集するのかも描かれない。なぜカルトの信者たちが死にもの狂いでケンヂ君(唐沢寿明)の姪をつけ狙うのか、まったく判らない。こうして観る側の足がかりとなる設定や描写には踏み込まず、ただなんとなく面白げな事件がいわくありげに積み重なってゆく。その結果、この作品を眺めているとどこかに存在する『20世紀少年』という本篇の長いダイジェストや予告篇を見せられているような錯覚に陥る(ダイジェストや予告篇なら、それは物語の核心へは踏み込まず、寸止め感で煽るのが使命であろうが)。
作り手の誠意と努力をもって呼び寄せられた、空洞化現象
事ほどさように、主題や物語の核を抜き去って、「感性的」なムードだけで2時間22分を持たせようとする『20世紀少年』にあっては、随所に盛り込まれる70年代風俗もノスタルジーを売るための撒き餌のようにしか見えず、どこかわれわれの世代しか面白がれない楽屋ネタのようだ。こうして誰かに切実にものを言うふうでもなく、自己満足的なひとりごとが続くような雰囲気の本作は、さしずめ「ともだち」が東京市街でテロを起こすときに繰り出す山車(だし)ふうロボットのように、巨大なのに中身はがらんとした空洞の世界である。
こけおどしの教団ロボットを下からのぞいたケンヂは、そのすっからかんぶりに呆れて、それはそのまま夜郎自大で現実を見失って中身のない「ともだち」への批判ともとれるのだが、しかしすでに映画『20世紀少年』自体が「ともだち」を嗤えない空洞ぶりを露にする。そして何よりまずいのは、その空洞化現象が批評意識をもってわざと演じられているのではなく、作り手の誠意と努力をもって呼び寄せられていることであって、これがはしなくも「感性の王国」ののっぴきならぬヤマイの重篤さを物語っているともいえるだろう。
かくして『20世紀少年』は、あいかわらず現実に加担せず、これからも核のない予告篇のような人生を生き続けるのだろうか?
こけおどしの教団ロボットを下からのぞいたケンヂは、そのすっからかんぶりに呆れて、それはそのまま夜郎自大で現実を見失って中身のない「ともだち」への批判ともとれるのだが、しかしすでに映画『20世紀少年』自体が「ともだち」を嗤えない空洞ぶりを露にする。そして何よりまずいのは、その空洞化現象が批評意識をもってわざと演じられているのではなく、作り手の誠意と努力をもって呼び寄せられていることであって、これがはしなくも「感性の王国」ののっぴきならぬヤマイの重篤さを物語っているともいえるだろう。
かくして『20世紀少年』は、あいかわらず現実に加担せず、これからも核のない予告篇のような人生を生き続けるのだろうか?











































